うしのあゆみ

牛に育てられた人間が、暮らしの有象無象を記します。

決算期

2月4日。東京は晴れ。事情があって、めちゃくちゃ部屋を綺麗にしている。引っ越しがあるとかいうレベルではなく。

部屋というか家全体をある程度整理するのを、本当はもう少し早く取り組むべきだったけれども、こう、腰が重たいのか何が重たいのかわからないけれども、あらゆるものが重たくって、これはもう、なんのせいだろうっていうのをずっと。

 

長嶋有さんの『愛のようだ』をめちゃくちゃなスピードで読んでいるんだけれども、途中途中で出てくる言葉が現実的すぎて、ズキっとくる場面がとても多くて困った。

車でどこかに出かけたいんだけれど、この終始漂ってくる儚さが怖くて、週末どこかに行くのを憚ってしまっている。今日は、二駅となりのショッピングモールに、お皿を買いに行った。

 

いちいち出費を気にしていたら、それだけでなぜか身体が弱っていくような気がしているんだけれども、身の丈にあった暮らしは多分、どこまでもダウンサイジングが可能で、それを掲げ始めてしまう以前に、必要な物事を見極める目を持てと、最低限のものごと、これは!と一目惚れしたものについては、ある種の「渋り」を見せるなという感じを、もう少し身体に染み込ませた方がいいのだろうなという気になった。

 

ロハスで最低限の暮らしをしている人々がいて、一方で、それを伝える人がいて。

自分は後者になろうとしているんだけれども、これがどこかとても重たく感じられてしまうなら、では、何をすべきなのだろうかっていうような漠然としたものが、最近芽生えている。

それを背負う感じで生きていくのは、でも、しんどいから、面白いと思った物事を、忠実に伝えていけばそれでいいのだと思うんだけれども、いかんせん、社会的な立場としてはまず、限りなく困難が先立っているので、しかもその困難とは、まず自分が「後者」になるために必要なドブさらいのようなそれだから、疲れてしまって、お茶ばかりを飲むじじいと化してしまう、みたいなシチュエーションが、割とありありと脳裏に浮かぶっていうか、半分なってる。じじいになってる。

 

誰でもできる物事を引き受けて、それである物事をつくりだして、編集は見せ方だから、それを見せるようにすればいいんだけれども、自分は本当に、もともとある物事を見ることができていないなあと、ことあるごとに反省をするのだから、思ったことはもう少し、綾瀬はるかさんの一言日記のように、己一直線で、つけておくべきなのだろう。だとしたら、このブログだ。ようやく、帰ってきました。

 

最近、好きな人ができました。

というか、好きな人ができたという表現さえも、すごく恣意的な感じで変遷していて、今すぐに会いたいわけでも、毎日会いたいわけでもなく、たまにご飯が美味しければそれでいいですみたいな、別に特別な状況はいらないから、ひとまず他人の洗濯物を処理しなくてはならなくなりましたみたいな生活のレベルで、素材の味で勝負するオーガニック食堂みたいに、普通な感じで、人に好意を持ってますっていう感じ。

こういう感じも、反省のひとつ。それでもいいんだけれども、恋というよりは、愛というよりは、限りなく「支援」に近い感情があって、それをだから、個人的にやっている感じ。どうとでもなれだし、具体的な進展はなくてもよい。そういうやつができると、でも、良い部分が生まれるんだなって思う瞬間が生まれてきている。

 

というわけで(?)たくさん本を読んで、賢くなりたい。もういっそ英語圏で働いて、ワークライフバランスを「言語」でわけれたら、と思ってすらいる。英語で仕事をして、生活は日本語で行えたら、使う脳みそが違うという点でもう、根本的に別れざるを得ないだろうみたいな、そういう発送がもう、初歩的なんだろうけどね。

 

という感じでここ最近は物事へのふんぎりのつき方が、はっきりと外部からわかるようになったことに改めて戸惑い、自分が望んでいる状況が目の前に具体的に現れるような場面を予感できるような瞬間に、今の己がひるむという、よくわからぬ戦いを行っていて、それが本当に個人的で、会社の面々が迎えるようとしている、何らかの惰性的な破滅もいよいよ遠くに輪郭がぼやけながら暮らしている。

崩壊してしまいそうになるのは、でも、だいぶ前に味わったはずで、それは過去の自分が報告しているわけだから、現状の自分がそれと同一であることぐらい、自分で保証できなくてどうするっていう話です。2018年は大成功の年ですから、2017年の私はあらゆる土地でこの清算を望んでいただろう。