タフネスと毒。

丁寧な暮らしに潜む、タフネスと毒。

生活が危ない

1月18日。東京は晴れ。

昨日、部屋の模様替えをしたので、少しだけ朝起きるのが早くなることを期待したけれど、ちっとも上手くいかなかった。で、定期券をなくした。

朝ごはんはスムージーを一杯だけ。なんだか食欲もない。今日の東京はちょっと暖かいだけで、不穏な気温だった。ランチを少しだけ高い店で食べた。全てが丁寧に感じた。

 

手紙をいただいた人への返事を貯めてしまっていて、それのいただいた中に「東京は消耗の街」だと書いてあったのを、やや不安に見つめている。それは、しかし本当だろうか。

実家にいるとき、食べるものが周りにたくさんあって、それが絶えず、また野菜はいつでも畑から採りたてを食べる。東京はそこに「流通」が絡んでくる。

完全な自給自足を考えてみると、たぶん今ごろは街路樹の葉っぱのアク抜きでもしているんだろう。もちろん、今は飢えてない。米粉のパン、スクランブルエッグ、味噌汁。ちぐはぐな晩御飯は、少しだけ前に喉元を過ぎた。

 

今この世界で起きていることを知らないまま、会社でエクセルをいじっているのがとてもストレス。今すぐに外にでて、カメラでも持って、取材に繰り出したい。聞きたいことがたくさんある気がする。いつからですか、どうやっているんですか、PRは?あと10年先のことを考えるのに、誰か担い手はいますか?

後継者不足と一絡げにされてしまう現状の、きめの細かさが伝わらない。後継者不足の深刻さは、極めて個人的、またその地域的な問題であるのに、「不足」がすべてを説明するようでいけない。

 

会社を出ようとしたら、荷物が届かないという人からの電話でほとんど怒られた。自分が絡んでないのでよくわからないし、発想の履歴はあるから、流通の人たちの手際によるんですと言っても、相手は治らない。大変素晴らしい同期が、アイデアを出してくれた。

帰りにローソンの前を通ったら、目の前を歩いてくるしかめつらのアラフォーOLと、若い女性がぶつかりそうになっていた。どちらも道を譲らなかったのだ。

結局何も怒らなかったけれども、もう、人がモノのように見えてしまって、しばらく息を止めてみた。苦しかったからやめた。

当たり前のように歩いているだけのに、誰かとぶつかりそうになるし、足を踏んでも謝らない人がいるし、なんというか、この街で本当にソーシャルを発信することが可能なのかを疑ってしまう。

ここは文化の発信地ではなく「外部からやってきた文化が、かろうじて留まっている場所」のように見えることがある。マイライフが、ほかに残っていそうな、例えば「利便性」のようなものに依存しきって生活しているように思えて、全身を掻き毟りたくなった。

 

家に買ってきて、友人から送られてきたポストカードを見て笑った。齢を重ねたチャーミングなおばあちゃんが写っている。

これは思い出であり、関係であり、居場所だ。自分が立てる場所を部屋に用意しておくは、殊の外重要なことだと実感した。「高かった」らしい木製のイカしたキーホルダーもまた、笑っていた。

 

そういうのがたくさんあって幸せだ!