タフネスと毒。

丁寧な暮らしに潜む、タフネスと毒。

出版業で暮らすこと雑記

1月11日。東京は晴れ。今日は大安だったような気がする。

朝起きたらけっこう快活になっていて、よっしゃいっちょ白湯でも飲むか!って白湯を飲んだらこれが悪かったらしい。会社に行くなり胃が重たくて本当に、身体って難しいです。

今日も外回りなんだけれども、移動に時間があるので、電車の中で色々と調べる。名古屋と仙台と京都、あとは長野で、どんな出版活動が行われているのか、それがめちゃくちゃ気になっている。

 

仙台。魅惑の土地、仙台。北の中心地としての役割を果たしつつ、若干東京かぶれしていると思いきや、メディアテークがあったりして、文化の発信は盛んとみた。けれども出版レーベルがあんまり無いのか、google先生はあまりうるさく無い。

ここで働けたら毎日火星の庭に行って、背表紙と目があった本を買って帰る前提で、おいしい深煎りを飲むのに。定禅寺通りに呼ばれてみたい。

 

名古屋。私が大好きな京都と東京の中間地点。東京でも、京都でもない、では名古屋とは何かというのを、2ヶ月ほど前の名古屋旅行で問うていた。東山動植物園の近くでは、それはそれは文化的な匂いがしたんだけれども、それは喫茶文化が一役買っている感じがある。

パン屋とお菓子屋さんが豊富なあの辺。名古屋に住んでみたいのは、そういう文化にかぶれたいから、なんだけれども、ローカルの発信地としては、こういう場所が一番おもしろい気がしている。

しかし一方で、何もかもが中間となっ霧散してしまうかもしれないとか、ローカル文化が閉塞化するような空気感があるのだとしたら、それが本当は、自分には合わないんじゃなかろうか、とか色々考えてる。ただ、すごく興味深い街が、名古屋。そこの出版社で働いてみるのが一つの夢。

 

京都。言わずと知れた京都。出版社がたくさんある京都。古来文化の発信の地だった京都に、奥がしれない魅惑の街並みに吸い込まれたい。ここにも喫茶文化とパン屋がひしめいていて、要するに私は、そういうお店が気軽にあるところに住みたいし、そういう場所で働きたいんだな、とつくづく思う。

京都がいいのは何べんも行っていても、まだわからない。なぜあの街が気にいるのか、ただのミーハーなのかどうなのか。その辺も含めて。

 

地域に関する本を出版することがずっと夢で、しかし今となってはそれも自分の裁量ではどうにもならない場面に居ついてしまっている。

確実に今の体制からは脱出すべきだと思うんだけれども、その理由は一つは生活が苦しい(経済的な意味に限らずに)のと、本当にやりたい方面の仕事をすべきだよ、なぜなら人生はあと40年しかないよ、と月曜社の小林さんが対談で言っていたので*1

文化を継承する規模感で言うなれば、40年は短いうちに入るだろう。それ以上、3桁年の構想を持てているかといえば、おそらくほとんどの身内が「?」だろうけど、それを本気で語る人の思考のレンズは、かなり豊富に用意されているんだ。それを、自分でも用意できるかっていう話にもなる。

 

今日、出先で『アレント入門』を買ったぐらいで、今日は特に進展はない。

仕事を選ばなければ、どこで暮らすかについてはさほど問題ではないのに、名古屋・仙台・京都のいづれかの場所に覚悟を決めて、東京一色になっている出版を見つめ直し、地方で問うべきだなと、大学の頃から考えているから、門が一気に狭い。

地方というか「非東京」みたいなイメージが強いかもしれないが、本当の意味でグローバル化が進行しているならば、少なくともローカルレベルでそれは進行しているはずで、それを地方に暮らしながら問うべきと思う。

東京のようなHPを作ったらレビューが稼げるからそうするのではもなく、東京にいるだけでBRUTUSとかポパイとかみたいな語り口だけしか手に入らないというのでもなく、実際に地方に暮らすことの発信をすべきだっていうのは、里山社さんで連載されている、藤井聡子さんにインスパイアされた部分が大いにある。まあ、上の主義主張はかなり湾曲されているから、実際に連載を読んでください。素晴らしいので。

satoyamasha.com

ライフスタイルなんていう、ほんわかした全然具体的じゃない言葉があるけれども、そういう麻薬的な言葉にどっぷりとハマるなら、それを地方限定的に、各所が行うべきじゃんなと思うから、地域を担いでいくこの私の世代が、そういうことを考えたい。

ちょっと話がでかくなった。これは父親から聞いた言葉なんだけれども、自分が生まれたところが故郷なのだから、私の子供は、自分の故郷がその子の故郷ではない可能性がある。その時、親の故郷はここであることを伝えるために、それ以前に、子がいつでも帰ってこれる故郷を用意して去るのが、親の役割と父は言った。

誰にでも当てはまる言葉ではないと思うけれども、自分はもう、生まれた場所、これまでどう過ごしてきたかを決定されている以上は、この言葉をただの戯言としても、父親の自分語りとしても処理できない。

というか、父親は自分を語っているわけではなく、全く違うものを語り、自分の子に自分と同じ目線を与えようとしているのかもしれない。どこを見ているのか、父は決して自分を見ろとは言わなかったのだから。

長くなってしまった、今日の日記は通常の倍の量になった。のに、今日考えたことの進展は特にない。明日もまた、歩きながら考えたい。あれも、素晴らしい本です。

*1:

dotplace.jp

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