うしのあゆみ

牛に育てられた人間が、暮らしの有象無象を記します。

ベーシック・アイテム

基本的なものを揃えたら、服はもう買わないでいいやって思うことが1年の中で何回かある。着るものはシーズンで揃えてしまえばそれでいい。春・秋と冬。ヒートアイランド東京では「春・夏」と一緒にしてしまうのは難しいので、夏物はさらっと羽織れるものと、Tシャツ。これがあれば別に必要ないミニマリズムで、服を「揃えよう」とする気持ちが、今シーズン一番高い時にある。

で、ZARAを見てみるんだけれども、ベーシックなアイテムって結局なんですか?って話になって、混乱してしまった。

ZARAとかではもう、合わせやすいとか、流行ではないとか、そういう別のものが基準になってセレクトされている気がした。だから「何がベーシックアイテムか」っていうのは、自分で決めなくてはならないらしい。

何がベーシックか。基本的な服とは何か。これがあれば、後は何が要らないか。要る、要らないは、では現在のところ、どのようにして選択されているだろうか。その選択によって購入されたベーシック・アイテムは、たとえば5年ぐらいの間、他の服を寄せ付けないほどに、あるいは文字通りその時々の装飾性の「土台」となることができるだろうか。

 

ところどころにあふれているベーシックアイテムも「ファッション」だから、その時々のデザイナーの意思に左右される。それに迎合するとかしないとかいう前に、ベーシックアイテムを決めつける気概を持つべきだ。ケーブルニットが流行ればそれもベーシック入りだ。そうではない、己の選別基準によって見事にカゴに入ってレジにゴールインした服たちを、今後も守り、きちんとアイロンが掛かるまでを保証する基準を持ち、それを問い続けるべきなのだ。だから気安くベーシック・アイテムは決められ、ない。

なんて書いていると、あまりいい気持ちがしない。フランス人は10着しか服を持たないのだから、自分もそれだけあればいい、というのは無茶だ。そうではない、もっと根源的な、フランス人には寄らない、日本人であるわたくしが、スウェーデンH&Mに堂々と乗り込んでいける基準が必要なんだ。大和書房さんの基準ではなく。

まあ、それは参考になるし、それを己の基準として受容することはもちろん可能だけれど。でも、単純な事実を述べたタイトルに「自己啓発」の要素が絡んでくるオリジナリティには、強い毒性を感じる。

というわけで、ベーシック・アイテムってなんだろうなっていう話でした。買うものを選んで、自分で身につけるものを選んで、人生は選択の連続ですっていうコピーは、なるほどマスターカード的な親和性があるなと染み入りつつ、しかしユニクロだけではやっていけない哀れな己を認めつつ、来月あたりにZARAに乗り込んでいけたら、ひとまず自分で覚悟がついたってことなんだろうな。

ユニクロ対ZARA

ユニクロ対ZARA

 

 こんな本があって、めちゃくちゃ気になってしまっている。