Ammuu

都市と田舎の間で、考えながら暮らしています。

ムーンライト所感

映画「ムーンライト」を観て、若干どころの騒ぎではなく、根源的な何かを突きつけられたような気分になった。

Moonlight

Moonlight

 

 扱いにくい、根源的な、秘められていたような、ずっと奥に眠っていて、それは消えない。ようなのが、蠢いてる。

主人公はいわゆる同性愛者なのだけれども、そう言葉で簡単に片がつく話ではない。シャロンが映画のラストで告白するのは、ケヴィンとシャロンの、まったく一対一の関係だった。人と人の関係を指す言葉は常に実際を伴っているべきなんだとすら、強く結論したくなる。

彼らの関係を同性愛と呼んでしまえばそれまでだが、彼らは当たり前に惹かれあっていたし、しかし当たり前ではないまったく個別的な「これ」と言えるシャロンとケヴィンの関係は、とても美しいものだった。

 

小さい頃、ひとつ上の先輩とかによくオカマと言われた。クラスでいち早く男性的な振る舞いを手にした男子は、それを持っていない男子をオカマ呼ばわりしては、己と同じような男性的な振る舞いを手にいれるように推奨していたけれども、自分はそれに完全に乗り遅れていた。

幸いだったのは「いち早く男性的な振る舞いを手に入れた男子」が、隣の一つ上の先輩だったので、その先輩は自分の幼い頃を知っているので、オカマと呼びはすれども、もっとも心の深いところを自分には見せていたし、また打ち明けていた気がする。呼称は広まったけれども、それが深刻になることがなかったのは、一つ上の先輩がそういう人だったからだけど、まあ今となってはあの状況以外はあり得なかったのだろうなと思う。

 

それ以降も、容姿のせいか振る舞いのせいか、マッチョな人間からはホモだのゲイだのバイだのと言われることがあって、そのたびに自分は何かと考えるような日々を送るかわりに、どうしてそんなことを言うのかを考えてきた。

自分に疑惑をぶつける彼らは、そう言わなくても生きていけるのだろうし、それと男性同士の会話の中で「ゲイではない」ことを確認し合うための踏み絵としての「ホモいじり」なんていうのは、なんとみみっちいことかと、一度ゲロを吐いたような気もする。

周りを不快にさせるのは簡単であるし、セクシュアリティを確定させることで会話の状態をフィックスさせる動機が、思いのほか不安定であることに、世のメンズはもう少し真剣になれよと思うけれど、そうは言っても始まらないというか、先にホモいじりが始まっているのが大体の顛末だから、もうダメだと幾度となく諦めた。

 

あなたの性的志向にまるで興味が無いのに、先に「おれはストレートだから」を証明するための「ホモではない」が待ち受けているのかと思うと、まったく生きにくい社会だなと思う。飲み会の席だと必ずと言っていいほど訪れる不快な瞬間が、どうにかなくなればいいのにと思っていたら、いつのまにか飲み会に行かなくなっていて、個人的な解決は、割と簡単に訪れていた。飲み会が嫌いな理由がこれである。

 

 

 

今日、会社の先輩と一緒にランチをしたのだけれど、めちゃくちゃ安心した。女性の先輩なのだけれども、心が安らぐ感じがしたし、ご飯がいつもより美味しかった。綺麗だし。こざっぱりしているし、居心地もいいし。

そして先週、男の友達と一緒にいたのだけど、こちらもめちゃくちゃ安心した。孤独が紛れる感じがした。上に書いた安心感とはまるで違う仕方で落ち着く。それぞれがあるのだからして、いちいち片方を退けたり助長させたりするのは、だからとてもナンセンスなことだ。

そういうことを思ったので、忘れまいと書く。会いに行きたい人がいて、それがとても個人的でめっちゃいい。その人と会っている、会った後に密かに電車で雰囲気を反芻しているなんていう、言葉にならないぐらいに助かる瞬間があることを、当たり前のように踏みしめることができるのが、こういう映画の効能なのかもしれない。

映画を見るのはそういう理由があるからなのだろうし、映画は決して自分一人だけではわからない部分を、文字通り写してみせる鏡だった。スクリーンが示しているものが何であるかは、全くあの人が言っていた通りだったのだった。