Ammuu

都市と田舎の間で、考えながら暮らしています。

痩せてしまっていく

頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも、目の前の課題は締め切りを持ってやってくるので、ゆっくり考えることができない。

物書きの人のそんな悲鳴を揃えた『〆切本』の続編が出るらしいと、自室のそれがなんだか後ろめたそうだけれども、まるで本棚の本が死んでしまったかのように、かつて部屋にあったような気迫のようなものを、本棚から感じれなくなっているように感じる。

 

こういう状態の中で、朝起きてコーヒーを淹れてる時に顔が重たくなるのを「かろうじて」と表現できるじゃないかと思う。

耳元で響く内田光子さんのベートーヴェン。31番はどこかで事切れるかのように響くし、あっちにいったりこっちにったり、最初から二番目の音の響きをずっと保ったまま、それを忘れさせないまま、あくまで理性的に音が進む。  

 

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『煮えたぎる川』を読み進めていて、このシリーズのニュアンスは「並走」なのかもしれないと思った。

元のTEDのように、聴衆とはあくまで距離をとったプレゼンテーションが展開される。それに突き動かされたいなら読者はフラットであるべきで、また具体的な策により敏感であるべきだ。

様々な手段を考案できる、そういう欲の深さ。そうでなければ、人生を真剣に考える手段とはならない。

 

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疲れているのではなくて、がっかりしているのでもなくて「痩せて身動きができなくなっている」。アイデアを生かすことができないまま平常と化した部屋と、良くも悪くも「毎年のこと」がほとんど儀式になってる環境に、なんだか参っているのだ。  

本屋に行って本を見ても、ああこれらも「売上」に勘定されて終わってしまうのだろうかと、改装されて紙がへたりそうになってる本を見つけては悲しい気分になってしまっている。それでもこれらは棚に並んでいるのだと、ものすごくその1冊が逞しく思える。何度も改装されてカバーが緩くなってどうしようもない状態の1冊が。  

 

そういうモチベーションで、届けてしまうのが申し訳ない。

痩せてしまう!己がやせ細ってしまう!

やりたいことをやれ、ではない!そうではない!

やりたいことをやれという状況を本当に許すのは、軽々しい発言ではない。日常会話ではない。日々の鍛錬だ。やりたいことをやれ!と放置する人間をさっさと置いて行けることた。覚えていられないくらい、何かに打ち込む。

 

英語、音楽、芸術。そういう状況を経ては、忘れて行く。そういう精神性が、この部屋に満ちた時に、会社をやめればいいのだろう。

この会社は必ず不良債権化した人間たちに占拠される云々の呪いをかける前に、その行く末をせせら笑う厭らしさが真っ当とならない生き方をするために、ここいらで小さな決別を果たすべきなのかもしれない。  

果たすなんて言葉で綺麗になるのだったら、生活はそれこそ何度でも「リセット」できるが、政治家がそんな言葉を言っちゃうのに呆れるように、そうやって綺麗になんでも収まるというのは、やっぱりツメが甘いのだろう。

 

読書が好きだ。本は好きとかではなく、必要なものだ。好き嫌いの次元ではない。必要なものだ。それが無いとダメというもののひとつ。

内田光子さんのベートーヴェンが、その人の時間がずっと重なって、その時の豊かさが、本当に毎日の時間の重なった、音の連なりなのだとしたら、そこには無数の音があったはずだ。

今のこの瞬間の音だけを聞き取ろうというのは。聞こえるだけに耳をすませるだけの行為は、もしかしたら、ずっと愚かなことなのかもしれない。