うしのあゆみ

牛に育てられた人間が、暮らしの有象無象を記します。

欲しいもの

欲しいものとは何だろうと、考えることが多くなった。

 

例えばずっと前から、家の近くにあるジャンブルストアの中に、The SAKAKIのプルオーバーシャツが欲しかった。

それが欲しくなったのは1年くらい前にプルーオーバーのシャツのシルエットを欲していた時期があったからだ。シャツにボタンがなく、またノーカラーのシャツが欲しくてたまらなかった時期があった。

で、The SAKAKIはそこに現れたのだった。思い切った丈の長さ、ちょっと色の褪せたレモンイエローのコットン生地。

 

今はどうだろう。セールをやっているというので、見に行ってみたけれど、なんだかピンと来ない。これが本当に欲しかったのだろうか。これを最初に発見して、まさしく出会ってしまった感覚に囚われた時の、強烈な印象はどこに消えたか。そればかりを考えていた。

『服を買うなら捨てなさい』という本。コスパとは「1シーズンにどれだけ着るか」と書かれていて、なるほどと思った。もうしばらく着ていない服がけっこうある。着られない服。

 

欲しいものは何だろう。

たとえば、読みたい本とは、なんだろう。

読みたいと思って買って、しばらく置いておくと読みたくなくなる。それは時期がくれば、たぶん本と目があうはずだからと、東京に引っ越して買った本は取って置いてある。

 

欲しいものとは。欲しい、とは。

常々思っているのは歩きスマホ(ゲームか動画を見ている)が滅殺されまいかっていうことで、いやでもそれは多分無理なので、モラルが向上しない東京から脱出するのが「欲求」というか、「野望」だ。

ここで生きていかずに、東京ではない土地で、しかし本に携わる仕事ができればいい。それか、本とデザインに関する仕事。

本に関わり続けたいのは、本は長生きするからだ。もうすでになくなった人の本がようやく邦訳される。それを読む。心を掴まれる。胸ぐらを掴まれる。そういう感覚が、時間を超えて来る感じがあるのだからして、それは本だけに許された体験だと思う。

なぜなら、本には紙と文字(時々ビジュアル)だけしかない状況が、終始保証されているからだ。スマホのようにはいかない。あらゆるアプリケーションを行ったりきたりできることが、障害となっていない。本はそういうものだと思って読んでる。気が散ることが、本の中で生じない(少なくともよくできた本は)。

 

だから本を読んでいるのだなあと思う。電子書籍が乗っているハードは、いろいろなことができることが、障害となってる。それは、邪魔の入らない文章との対峙が、はじめからできないようになっている(少なくとも機能上は)。

 

最近、そんなことを思ってる。本を読むことで、その時間を本に使ってくださいという気持ちで、本を作りたいです。これが目下の、欲求であることにする。野望はまだ遠くにあるような気もする。常に野心を捨てるな。