A slow walking cow.

牛に育てられた人間の有象やら無象やら




「和牛は3年しか生きらんね」

匿名でブログを書いてみる。初めてのこと。

 

こんにちは。自分は都内の出版社で働く学生です。

今まで別の媒体で日常の有象無象を書いてきたけれど、前の媒体が知れ渡ってしまったため、匿名に逃げてきました。わからないといいなあ。

 

 

3月から、いろいろとゴタゴタしていたんだけれども、こう、ようやく落ち着いてきた。本なんて読めないぜとしょげていた2月、春を迎えるのがしんどくて笑った。

 

この間まで、気のおけない知り合いが泊まっていた。来年からこいつと一緒に暮らせっかなあ、と考えた。

たとえば家族は、でも自分で選んだわけではない。選ぶ、とかではない。自分の場合は。養子として入ったわけではない。酪農家の家に生まれた。そして、兄弟がいた。気がついたらそうだった。それだけの話かもしれまい。

 

でも、こいつと一緒に暮らすのは、だから家族とかではない。というか、そもそもだいたい都会で暮らすのはお金がかかる。

暮らすことの豊かさを訴える前に、暮らすことが高すぎる。豊かな暮らしを訴える、ロハスなエントリなんかも、ちょっと地面を掘ってみると、たくさんお金が見えたりするから嫌だ。

だから、暮らすことを安く済ませるのではなく「生活費によって、それ以外を圧迫しない」というのが正しく、これを目指したいわけだ。だから、友人といっしょに暮らすっていうも、ありじゃない?

 

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なんてことを3月から思い巡らせていたら、先月末、母校の高校生と教員が亡くなった。

この事件で、母校の定期演奏会は中止になり、後輩はマスコミの対応に怒った。地元にいない人間は、ただただ所在がない。ぐったりした。

 

ある時、父親が急に言ったことには「和牛は3年しか生きられね」だった。生まれて3年で、和牛は屠られてしまう。そういうのを、うまいうまいと食っている。

そういう食べ方をしてきてしまったから、もう後に引けない。牛が可哀想だから食べないのも、一つの選択肢だろう。それを貫けるほど、忘れがたい体験をすればだ。

健忘症のように、忘れてしまった方が良い事柄の方が、多かったりするのではないか。今すでに、忘れているのだとして。そういうことが多そうだから、余計気が滅入った。

 

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圧倒的に遅い事柄がある。言葉が届かないことがある。

でも、一緒に暮らしたいかもしれない彼に会って「生きていて良かったね」なんて言えない。そういうのを、言葉にして喜び合うのは、たぶん事柄を矮小化していると思った。

その友人に触れることができ、一緒にhuluなんかを観て「この話ってさオリジナルと関係あるの?」「え?知らんよ」てなやり取りができてれば、それがいいのだ。

 

その彼は、彼の奥の方に、目玉の奥の方に、やっぱり人間くささを持っている。

それは、彼がどういう考えを持った人間か、という問いかけよりもずっと先に、彼を印象付ける「触媒」みたいなものかもしれない。それを媒介して齎される、直接的ではない彼のその人間臭さを、自分は心底愛おしいと思う。

彼がいてくれて良かった。何が良かった、どう役に立ったなんて必要なくてよい。人間であることが、そのどうしようもなさが、彼から素直に伝わってくるのが、愛おしくてならない。

 

その人が健忘症のようにして忘れている事柄を、その人によって忘れさせて欲しい。こんな風に言ってみれば、人と暮らすのを能動的に選びうるかなあ。

 

牛を食らいながら、それなりの時間を人と生きていくのだとして、ならば、書き記すことを私は辞めようとは思えない。