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牛の歩み

のそりのそり、牛に育てられた人の痕跡を残す

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このブログについて

霧が晴れる

もう、勉強する時間と仕事をする時間だけで生活ができている感じが、すごく貧しくて嫌になる。なんか、もっと人生を豊かにするっていうか、自己満足も甚だしい時間があってもいいだろう。だって、これは俺の人生。自己満足で何が悪い。それって自己満足でしょって、表現できてりゃそれでいいじゃんよ(誰に言ってんだ)

 

なんて、投げやりな気分になっている理由は八割知れていて、次の出張の準備をしたいからだ。色々と。資料を読んだり何だり。

でも、それを土日にしちゃうのかい?っていう。己の関心がそっちに行っているよ?っていう、どこからか聞こえてくるセルフな声が、すごくノイジーだ。何か、静かな映画でも観ようかな。エンヤ聴いても収まらないし、無理だわな。

 

***

 

淡々と生きている人を探していた。結局は関心を払わなくてはならない、面倒な仕事や他人に対して、その関係の中でも何かしらを書き残して、それらを読み物にまで昇華できてしまう才能を携えておくことで、自分の歩みが強くなった気がする。都合のいい薬みたいな感じのやつを。

 

ずっと文通をしていて、それが忙しさにかまけて霧の中に消えそうになった時、一通の手紙が霧を晴らしたのは昨日のこと。手紙の相手は『須賀敦子の手紙』を読み、自分のことを思い出して、そして手紙を書きたくなったと書いてあって狼狽えた。

でも、須賀敦子さんがいるんだよな。俺には。この方を読むことができるんだよな。

こともあろうか自分が須賀敦子さんを生活の隅に追いやっているのではと、気持ちを改める始末だもう嫌になっちゃうよ。霧の中にペッピーノを探していた、須賀さんご自身がその中へ消えてからしばらく経つ。まさか、須賀さんに己の霧を晴らされることになるなんて。

 

文字を並べているだけで、何か綺麗になったような時もあるし、ごちゃごちゃと他人に怒ってしまう時もある。美しい詩が同じ日本語で書かれている時、申し訳ない気持ちになる。もちろん日本語で申し訳ないと思うわけなので、もういっそ別の言語が欲しくなる。

英語を勉強しているけれど、やれTOEICで高得点が欲しいわけでも、やれビジネス英語を使えるように「なりたい」わけでもない。

喋れたら、書けたら。そこには別の考える様式ができるわけで、それは校庭にサッカーグラウンドだけではなく、野球ができるように白線を引くことに同じだと思う(と、さっき原研哉さんの話を聞いて考えた)。

 

 

須賀敦子さんは、それをイタリア語でやったり、きっと英語でもやったのだろうな。なんて楽しいんだろうとか、ちょっと前まで理想は一途だったのに、この間ドイツの友達と英語で喋っていたら(ようやく)割と英語も同じ「己」な気がして笑った。

物事の別の側面について、別の表現を用いてスポットの位置を変えることができても、言語が変わると自己変容についても変化を知ることができるかっていうと、多分そうでもないんだと思う。あくまで仮説だけれど。

 

須賀さんは、自己がそもそも清められていたんじゃないだろうか。他人にはわからない仕方で、須賀さんが清められていた。そしてその鍛錬の結果が、とても精緻で綺麗な日本語の流れとして、ちょっとだけ、現れていたんだろう。すごい。

 

けれど、自己が変容するとかしないとか、そういうのは抜きにして、やっぱり以上の仮説には、他人が必要で、つくづく自分は人間が必要だなと思う、土曜の夜である。夜風が冷たくならないね。